- 春日部で40年。あなたの街の音楽教室。ミュージックファームぷりま

ピアノ・声楽・ギター・バイオリン・フルート・クラリネット

フィジカルもメンタルもセルフケアが欠かせません

相変わらずウォーキングは継続しています。そして歩き方を見直してから、腰痛はかなり軽減しました。ですがあちら立てればこちら立たずで、しばらくは足裏が妙に痛むようになりました。きっと若い頃なら寝るだけで回復していた疲れも、今ではそうもいかなくなったようです。

そこで夜、寝る前に足裏のマッサージを始めました。ツボ押し棒を使ってしっかり押し込むと効果があったようで、1週間程度で足裏の痛みがおさまりました。すっかり足裏揉みは就寝前のルーティンとなり、日々のウォーキングも快適になってきました。つくづく身体のセルフケアの大切さを身に染みる今日この頃です。

これは何もフィジカル面に限らず、メンタル面でも同様、セルフケアは欠かせません。コロナ禍以降、特に社会情勢はかつてないほど荒んでいるように感じます。どことなく不安な気持ちに苛まれやすいとも言えます。そこで音楽の力が有益なのは言うまでもありません。

もちろんコンサートへ出かけたり、部屋でイヤホン越し音楽を聴くだけでもある程度はリフレッシュできるでしょう。でもそれだけでは受け身で、どこか他人まかせになってしまっているとも言えます。

自らが演奏し、その響きを自ら浴び、気分一新!そのように能動的に自身のメンタルケアが出来れば理想的だと思います。そのためには自分自身が気持ちよく感じる音色で楽器を響かせることを最優先にしたいものです。それは「楽譜通りに間違えずに弾く」や「技術的に上達する」以上に大切なことだと思います。

電気を必要としないアコースティック楽器のよいところ

ここ最近、お隣の千葉県沖で地震が多いのが気になるところです。万が一の非常事態になっても心配ないように、私も簡易な太陽光パネルとポータブル電源を準備しています。やはり日常生活に電気は欠かせません。

さてふと思い出したのが、数年前の出来事です。教室のビルの地下にある電源装置が浸水したため、ビル全体が停電してしまいました。復旧まで丸一日近く電気が使えなくなってしまったのです。もちろん困るには困ったのですが、レッスンは通常通り行えました。そう、我が教室でレッスンする楽器は全て、電気を必要としないアコースティック楽器のみだからです。ポータブル充電器等を使って譜面を照らす灯りを何とか準備するだけで、ほぼいつも通りにレッスンすることが出来ました。

アコースティックは平時、エレクトロニックに比べると面倒で手間がかかります。ですが、停電等の非常時にはそれが一転。電気を要するエレクトロニックの機器は全く使い物にならなくなるのに対して、アコースティックの楽器は泰然自若としたもの、実に頼もしい限りでした。住宅事情等で、普段は電子ピアノで練習する方も多いと思いますが、レッスンではどうぞ、グランドピアノのアコースティックな頼もしさを堪能していただければと思います。

そうそうアコースティック・ピアノは湿度管理が上手だとその状態を保てます。乾燥には加湿器、湿度が高ければ除湿器があれば理想的です。すると悲しいかな、それにはやはり電気が欠かせません。

教室で使っている加湿器です♪

日本の音楽に貢献したウクライナ人音楽家「メッテル先生」

以下2022年7月号の「おたより」から転載です。

大体、戦争なんてごく一部の権力者や戦争で利潤を獲得する死の商人他除くと誰の得にもなりはしない。何よりそれに巻き込まれる市井の人々は本当に悲惨の一語に尽きます。ただでさえコロナで面倒だったのに、どうしてさらなる厄介が生じてしまうのか?このような人の業の深さは歴史を知ることで、その一端は学べるでしょう。ですが、今からウクライナやロシアの歴史を一から学ぼうにもとても追いつきそうもありません。やはりには音楽がとっつきやすく、そこでたどり着いたのが「メッテル先生」です。

「メッテル先生」、本名エマヌエル・レ・メッテル。大正末期にハルピンから神戸へとやってきた指揮者です。私はずっとロシア人とばかり勘違いしていたのですが、正確にはユダヤ系の亡命ウクライナ人だったのです。メッテル先生が関西音楽界に与えた影響は絶大で、クラシックでは大阪フィルを率いた指揮者、朝比奈隆を指導育成します。ポピュラーでは服部良一にリムスキー=コルサコフ直伝の和声法等の音楽理論を伝授したことでも知られています。

ロシア革命を機に亡命せざるをえなかったメッテル先生の事情をノンフィクションで知り、現在の戦争にもどこか深くで通底していることを感じ大変心が痛みました。とにかく今は一日も早い終戦を願うばかりです。異国の小市民に過ぎない私にできることは些細な事に過ぎません。それは仮に扇情的に戦争を煽られても、それには乗らず自身のメンタルを平静に保つことです。そのためにも音楽を聴き、自身でも演奏するのです。それはごく小さなことではありますが、平和への貢献の一端を担うと考えています。

今月の一冊 近藤憲一著『1日1曲365日のクラシック』

1日1曲365日のクラシック

近藤憲一著/ヤマハミュージックメディア/ISBN(13)978-4636972283

以前のエントリーの通り、動画サイトで音楽を視聴するのがすっかり当たり前となりました。ただ異様なほど大量の曲があり、どこを糸口に音楽を聴きはじめたらいいのか迷うことも。そんな時、適切なガイドが欲しくなってしまいます。

クラシック音楽の入門ガイドにぴったりなのがこの本。日めくりカレンダーのように1日1曲を紹介。ふと思いたった日のページをめくり、動画サイトで検索すると、きっと新たな音楽に出会えるのではないでしょうか?

ベランダ菜園と「おすそわけ」と音楽

教室でベランダ菜園を始めてもう6年以上。元々は猛暑に備えてグリーンカーテンを作るためにゴーヤ栽培をはじめたのをきっかけで、今や通年で何かしら栽培するまでになりました。

菜園を始めて実感するのは、こちらの思う通りに野菜が育たない事です。スーパーの商品のようにはそろわず、曲がったり、大きさもまばらな野菜が育ちます。しかも旬になると収穫が集中。生鮮食品なので保存にも限界があり、自分だけではとても食べきれません。見た目は悪くとも大切に育てた野菜、捨てるに忍びなく、周囲へ「おすそわけ」したくなるのです。

この「おすそわけ」ってとても面白くて人と人との関係の潤滑油にもなったりします。もしこれが保存や貯蔵が可能であればそんな気も起きないかもしれません。期限のある生鮮野菜だからこそ、「おすそわけ」のこころが生じるのだと思います。

音楽もこうした生鮮野菜に相通じるところがあると思います。今や音楽も録音で保存可能ですが、本質的には一度音を鳴らせば消えてしまう、やはり限りあるものです。

自身だけで音楽を奏で楽しむのも面白い。けれども、それをさらに皆で共有し「おすそわけ」するのも楽しい。それが発表会など、人前で演奏する面白さだと思います。

もちろん当教室の発表会はプロの品評会ではありません。たとえ傷があっても、粒がそろわなくても、一人一人が大切に育んできた音楽を共有して楽しんでいく機会にしたいと思います。

今育てている野菜の一部、セロリブロッコリーチンゲンサイ

  

予定調和じゃない想定外の感動~クリスチャン・マークレー展にて

コロナが小康状態になってからすっかり楽しくなったのが、展覧会での鑑賞です。(声を出すわけでもないので、飛沫感染等の恐れも少なく安心だったせいもあります。)

特にこの2年はよく展覧会に通いました。その中でも特に気に入ったのが、「クリスチャン・マークレー/トランスレーティング[翻訳する]」。会期中に2度も東京都現代美術館に足を運びました。(もう2年も経つのですね。)

展示内容を簡潔に言葉にするのは難しいのですが、音楽的な美術、または美術的な音楽ともいえる前衛的なものでした。聴覚の芸術「音楽」と視覚の芸術「美術」の融合はそう容易くないのに、いとも簡単にやってのけているようで大きな衝撃を受けました。加えて前衛的な内容なのに難しくなく、日本のマンガ文化にも影響を受けたクリスチャンの作品は驚くほどポップに仕上がっていて、その親しみやすさにも感心してしまいました。

一般的に抽象的で分かりにくいといわれるモダンアート、かえってその分かりにくさがにはクセになっています。分からず理解できなくてもまずは作品に触れてみる。すると何が何だか原因不明だけれど作品に魅きこまれる時があり、えも言えない幸福感に包まれます。

この幸福感は起承転結や喜怒哀楽がはっきりしたものからは味わうことのできない想定外の感動で、モダンアートに触れるとその感動にめぐり合うことがままあります。そしてそれは予定調和にはいかない人の営みそのものにも感じられます。

忘れる為に覚えなさい?!~百閒の「忘却論」

よく生徒さんたちから「一生懸命練習してせっかく弾けるようになった曲が、次の曲を取り組みだすとすっかり忘れてしまい情けなくなる」との嘆きの声を聞きます。ずっと弾き続けていれば、確かに覚えていられるが、それでは次の新しい曲には進めない。新曲に進めば、やはり前の曲は疎かになる。でも完全に忘れることはなく、リハビリ練習さえすれば、前回より時間をかけずに弾けるように戻るのです。ただこの説明だけではどこか不足があるようで、私自身もどこか腑に落ちませんでした。

以前、ラジオ番組か何かで内田百閒(小説家・随筆家)の「忘却論」が話題に。早速読んでみました。ドイツ語教師も勤めた百閒は『自らの経験から詰め込み主義を奉じ、学生にぎゅぎゅう容赦なく詰め込む』教育方針。私はちなみに詰め込み主義は大の苦手ですが、なぜ覚えさせるか、以下の百閒の説明に妙に納得してしまいました。

『覚えていられなかったら忘れなさい。試験の答案を書くまで覚えていればいいので、書いてしまったら忘れてもいい。しかし覚えていない事を忘れるわけには行かない。知らない事が忘れられるか。忘れる前には先ず覚えなければならない。だから忘れる為に覚えなさい。忘れた後に大切な判断が生じる。語学だけの話ではない。もとから丸で知らなかったのと、知っていたけれども忘れた場合と、その大変な違いがいろいろ忘れて行く内にわかって来るだろう。』(「間抜けの実在に関する文献」<ちくま文庫>)

これを読んだらすっかり忘れることの不安がなくなってしまいました。

ピアノを弾く時は普段使わない筋力を使います

私と腰痛との付き合いはもう30年。少しでも症状を軽くと思い、近年始めたのがウォーキング。ようやく生活習慣化しました。それでも季節の変わり目などで痛みが出ることはあったので、それほど効果がないものかと半ばあきらめていました。

ところが歩き方を見直したら、効果てきめん!今のところ痛みが出ずに済んでいます。これまでは無意識にですが足を引きずって歩いていたようです。それを行進するつもりで太ももを持ち上げて歩いてみました。でも悲しいかな、鏡に映っている己の姿、思ったほど上がっていません…。「もも上げ」歩きをした翌日はひどい筋肉痛になりました。ですがそれがインナーマッスルの腸腰筋に効果があったのか、かなり腰回りが楽になりました。

今も歩き方はいろいろ工夫していて以下の動画を参考にしたり、いろいろ試行錯誤は続いています。

「歩く」という日常動作ですら意識をして初めて動かす筋肉がある有様。ましてやピアノを弾くといった非日常的な動作である楽器演奏では、さぞや使ったことのない筋肉や未知なる身体の使い方があるように思います。(以前紹介したこちらの本もおすすめです→リンク

ですから、上手く弾けないことをそれほど嘆かなくてもいいと思うのです。むしろピアノを弾くという特別な動作によって、自らの秘められた身体の可能性を開拓し、それを楽しみたいところ。習い始めはやっとのことで広げていたオクターヴ幅も次第に筋肉がつき、いつしか楽に届くようになるのも「ピアノあるある」です。ですから時間をかけ、焦らず、じっくりと「ピアノ筋」をつけたいきたいものです。

 

 

山と同じくピアノも頂き高く懐深い

私は年に数回、山歩きをします。そのほとんどは夏の避暑が目的です。普段のウォーキングの延長で、ややアップダウンある道を少し長い距離歩く程度です。そして歩き終えた後、その疲れをとるために温泉に浸かるのが何よりの楽しみなのです。同じ山遊びでも、寒い雪山でのスキーなどのウィンタースポーツや山小屋に泊まるような本格的な山登りにはあまり興味はありません。私はともあれ、山の楽しみ方は本当に多種多様で奥が深い。湖畔を眺めるだけでも楽しいし、その一方、命懸けで最高頂を目指す挑戦まであります。まさに頂き高く懐深い。

ピアノも山のような多様性があると思います。ジャンルにしてもクラシック、ジャズ、ポップス等種々多彩。同じクラシックでもバロック、古典派、ロマン派、近現代と時代毎にスタイルが異なります。もちろん作曲家毎にも作風は異なります。膨大なレパートリーの中から自分に合った音楽を探し出すのも本当に楽しいものです。そしてコンクール等、極限状態の中、技術的な頂きを目指すこともできます。発表会などで多少の緊張感を味わいながら演奏を楽しむこともできます。もちろん家で一人で心安らかに弾くのも楽しいです。

私はそんな頂き高く裾野が広く懐深いピアノのガイド役です。皆さんがピアノを楽しめるように、適切なコースを案内したいものです。もちろん私が知りうるピアノの魅力はたかが知れています。でも少しでも多くの魅力に私自身も気づいていけるように日々学んでいきたいと思います。

(数年前に撮影した奥日光・刈込湖の写真。涼しかった~♪)

日常に欠くことのできない音楽「At My Piano」

最近ブライアン・ウィルソンのアルバム「At My Piano」をよく聴きます。ブライアン・ウィルソンはお馴染みの「ザ・ビーチ・ボーイズ」のリーダーでシンガーソングライターです。ですがこのアルバムでは、なぜか歌なしのピアノだけのインストゥメンタルの曲集になります。

私が衝撃を受けたのはその響きです。今や解像度の高いハイレゾな音が巷に溢れる中、昔懐かしのモノラルで録音されています。これは4K・8Kと画質がよくなったカラー液晶のテレビで、白黒の番組放送されることと同様と言えるでしょう。普通の古いモノラル録音でもピアノの場合、不思議と自然な響き(左から低音、右から高音)を感じるのですが、このアルバムでは最後の1曲を除き、すべての音域が中央に集まるように意図されているようです。中央に音が集中し固まっても、うるさくなく、それぞれの音域で音色の濃淡が異なるので、まるで水墨画のような深遠な音世界を感じたのです。これまで味わったことのない「古くて新しい」響きに、驚きと共に溢れる歓びを感じました。

私にとって音楽を聴くことは、日常生活において欠くことができません。そしてもっと深く音楽を味わいたいものです。私が演奏技術を学び続けるのも、クリエイターの創意を少しでも肌身で感じたいからです。聴く分には簡単に思える技術でも、実際に演奏してみると意外に難しく苦戦することがあります。こうした実体験を重ねる毎に、演奏家をはじめクリエイターの皆さんに対する経緯が深まるのです。これからも今まで以上に大切に音楽を聴いていきたいと思います。

西洋の楽器ピアノにフィットしたい東洋人の私

以前、私はひどい蕁麻疹に悩まされたことがありました。病院の皮膚科で抗ヒスタミン剤を注射しても、薬を処方してもらっても効かず。困って東洋医学的な治療をする病院に変えて漢方薬を処方してもらったら即改善。やはり西洋式の治療だけでは東洋人の私には不十分なこともあるのだと、この時思い知りました。

ピアノに対してもこれに似たような感覚に陥る時があります。東洋人の私には、この西洋の楽器はどこかフィットしきらないと感じてしまうのです。その違和感はごくわずかなのですが、一体それが何なのか?よく分かりません。

その点、歌謡曲をはじめとした邦楽ポップスでは「言葉」という明確な文化的な違いがいつも問題となりました。洋楽曲を原語そのまま直輸入するのではやはり不十分で、メロディをそのままに歌詞だけわたしたちに通じる日本語に翻訳されることが一般的です。ただし原語から直訳ではメロディに日本語がきれいに乗らないことも多いのです。だから意訳をする等、あの手この手で創意工夫されました。そして洋楽のメロディと日本語の歌詞がフィット。明治以降のこうした試行錯誤の延長線上に現在のJ-popは連なるのです。

邦楽ポップスでの先人の創意工夫を知ることは私自身大変勉強になります。ピアノは器楽なので、直接的には言葉の問題はありません。ですが、やはり直訳的に理解しようとするには限界があると感じています。あの手この手を尽くし、意訳的な創意工夫で自分の身体とピアノが違和感なくフィットしたいものです。そしていつか深く掘り下げてピアノを弾いてみたいものです。

坤輿万国全図(17世紀初めイタリア人の宣教師マテオ・リッチが作成した漢訳版世界地図)

 

間違えても機転を利かせてのりこえたい

楽譜はとても優れた記憶メディアで、私たちが現在、300年近く前の音楽を演奏できるのも作曲家が楽譜に書き残してくれたおかげといえます。

ただあまりに楽譜が優れているので、その通りの音の高さ・長さで演奏さえすれば、それらしくなります。ですから私たちはつい楽譜通り間違えずに演奏することを重要視してしまいます。

ですが「人生が筋書きのないドラマ」である様に、演奏でも楽譜通りにいかない場面に出くわすことはままあります。どんなことがあっても間違えないで演奏するよう備えることは、もちろんある程度は可能です。時間をかけ、何度も反復練習を重ね、徹底的に体に叩き込んで覚える方法です。でもこうした競技的なスリルある方法は、練習に専念できる環境が整っていて、時間も体力にも余裕のある人に限られます。日常生活を営みつつ趣味としてピアノを楽しむ方法としてはあまりお勧めできません。

となれば、やはり演奏中に、ある程度間違えてしまうのは致し方のないことだと私は考えます。「間違えないよう」と注意深く演奏する以上に大切なのが、「間違えたらどうするか?」です。つまりその場で「機転」を利かせてその間違えを何とかのりこえてしまうことだと私は考えます。

音楽での「機転」とは「即興(アドリブ)」です。これはクラシックピアノのメソードには、あまりなく私自身も試行錯誤の真っ最中です。ですが「黒鍵ペンタトニック」でその糸口をつかんでみたいと思います。コロナも5類に移行した今、始動したいと思います。

五線譜の前身、グレゴリオ聖歌譜線ネウマ(14~5世紀)

 

漆器の味わいのように、何度も弾き重ねて演奏を深化させる

今から十年ほど前まで、6月の父の日には、毎年、恵比寿ガーデンプレイス恵比寿麦酒記念館(現在休館中)で「お父さんのためのピアノ発表会」が催されていました。教室からも生徒さんが参加することもあり、はそのお手伝いで毎年参加していました。

中には毎年のように参加される常連のお父さんもいました。しかも、毎回弾く曲は決まっていて、ベートーヴェンの月光ソナタの第1楽章でした。当時まだ青二才の若造だった私は「いつも同じ曲ばかり弾いて、飽きないのかな?」と思っていました。ですがその月光のお父さんの演奏を毎回聴くにつれ、その考え方を改めました。最初は、曲の最後まで何とか辿りつくので精一杯だったのに、年々腕を上げていき、曲の起承転結の聴かせどころを見事に弾ききり、板についた演奏になったのです。まさに「雨垂れ石を穿つ」とはまさにこのこと。年々コツコツと進(深)化していく月光のお父さんからわたしはとても大切なものを学びました。

やはり曲を一度弾いただけでは勿体ない(特にクラシックの曲は)。何度も塗り重ねることで漆器に味わいが増すように、演奏も何度も弾き重ねることで深みが増すように思います。

以前、現在、100歳を超えて現役のピアニストである室井摩耶子さんの記事を読みました。「80歳の頃になってようやくピアノが分かってきた」と仰ってました。となれば私なぞまだまだ青二才。ピアノの果てない奥深き魅力に少しでも触れられるよう、一歩ずつコツコツと弾き重ねていきたいものです。

「ぷりま音楽歳時記」もいよいよ一巡

いつも毎月第2週目に更新しています「ぷりま音楽歳時記」、来週の更新で、すべての長調・短調の紹介を終えることになり、計24調、一巡することになります。ということはこのブログをはじめて丸2年が過ぎることにもなります。

西洋音楽の長・短調によるシステムは本当によく出来ています。それぞれ「12」、すなわち時間や月を表すのにも使われる「ダース」という単位で、実に日常生活に溶け込みやすいと思います。

ただこの24調による音楽の歴史自体はそう古くはなく、確立したのが18世紀の前半。まだまだ300年程度に過ぎません。これは大バッハが活躍した時代とほぼ一致します。確立したばかりの24調を全て用いて「平均律クラヴィア曲集」を体系的に作曲したため、大バッハは「音楽の父」と呼ばれるようになったのです。

A.シフによる「平均律クラヴィア曲集」全曲演奏<ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール>(第1巻:2017年 第2巻:2018年)

24調の理論的な確立において、バッハと同年代の作曲家で理論家であるマッテゾン(1681~1764)が1713年に記した「新設のオルケストラ」がその到達点の一つとされています。その中でマッテゾンは17の調については、各々から想起される情感の言葉を当てはめています。各調から何か言葉を当てはめるのは、古代ギリシアのプラトンの頃から脈々と続く西洋の習慣ともいえましょう。音階を単なる音の連なりとせず、それぞれの調の特性を見出そうという試みは、私にはとても魅力的で、西洋音楽の奥深さを感じます。

「音楽歳時記」が2巡目に入る来月からは、マッテゾンが各々の調に当てはめた言葉も紹介しつつ進めていきたいと思います。

 

小さな進歩が、大きな創造力につながる

日常の移動を出来るだけ徒歩にするようになって私のスピード感に大きな変化がありました。自転車をペダルでこぎ進むスピードすら今では速すぎて、少し怖さすら覚えます。車の運転など無理、もはや完全なペーパードライバーです。

確かに徒歩だと時間がかかるというデメリットはありますが、速いスピードでは気づかなかった小さな街の変化にも敏感になり面白くなってきました。どうやら私にとって慌てて先を急ぐより、ゆっくりじっくりと歩を進める方が、どうやら性に合うようなのです。

それはピアノの練習でも同様のようです。楽譜を初見でさっと鮮やかに弾きこなし、次々と新しい曲に挑戦し続けるのは、あまり自分には向いていないようです。それより同じ曲でも、角度を変えて色々なアプローチで何度も反復していくことで、つぶさに曲の魅力を味わえるように感じられ、じっくり進めた方が面白いのです。

それでは大して進歩しないじゃないか?そう思われるかもしれません。18世紀の大哲学者カントは、毎日・同じ時間・同じ経路での散歩が日課だったそう。一見同じことの繰り返しでも、どこかに小さな変化があり、それが大きな創造力となり、カントの哲学的大発見に繋がったと考えます。

日々のレッスンでちっとも進歩していないと嘆かれる方、どうぞご心配なく。レッスンを継続している限りはどんなに小さな歩幅でも進んでいきます。私はその小さな変化を見つけ出すのが好きなのです。ですから共に小さな進歩を見つけ出しながら、大きな創造力に繋げていきましょう。

たった50鍵の小宇宙、バッハの時代の鍵盤曲

最近、はバッハの曲の練習に時間をかけています。やはりクラシックの作曲家では、バッハが一番好きなのだと実感させられます。

さてバッハの時代の鍵盤楽器は種々様々でした。教会のオルガンをはじめ、宮廷で愛されたチェンバロ、簡素な練習用のクラヴィコードなど。ピアノはまだまだ生まれたての新参ものでした。

現在ピアノでよく弾かれるバッハの曲の多くは、作曲家自身による詳細な楽器指定がありません。有名な「平均律クラヴィア曲集」における「クラヴィア」とは、鍵盤楽器全体の総称を指します。つまりどの鍵盤楽器で演奏して問題がないようにバッハは作曲したのです。このようなバッハの懐の深さは時代を超越すると思います。それは電子楽器、シンセサイザーによるレコードで初めてミリオンセラーを達成したのが、W.カーロスによる「スイッチト・オン・バッハ」(1968年)というバッハ曲による作品であることからも明らかなように思います。

そして私が何より驚嘆するのはバッハの鍵盤曲の多くがたった50鍵程度で作られていることです。これは当時の楽器の技術的事情が大きいです(現存する最古のピアノ、クリストフォリの3台のうち2台が49鍵)。現在のピアノの標準鍵盤数は88鍵なので、その6割しか用いないいにもかかわらず、バッハは音楽の小宇宙を築き上げていて、そのイマジネーションにはほれぼれしてしまいます。

なお私の防災グッズには49鍵の簡易なキーボードも準備しています。何かあったらそれを抱えて避難し、バッハの曲だけは何とか弾ける環境を作りたいと思います。

メトロポリタン美術館に残る最古のピアノ、クリストフォリ。バッハと同い年のD.スカルラッティの曲を演奏した動画

遠回りもそう悪くはない?得難い経験

大学でが専攻したのは「音楽学」です。学校の方針で単なる座学にならぬよう、副科ですが楽器演奏の実技も必修でした。副科実技の中で特に優遇されていた楽器がピアノでした。4年間の継続履修を条件に、他の楽器の倍の単位を当時は取得できました。学生の多くはこの恵まれたピアノのルートを選択し進むのですが、あろうことに私は二年次で道から外れ単位を失います。

その後、苦難の道が待ち受けます。私はピアノ以外の楽器経験はありませんでした。いくら副科実技とはいえ、ヴァイオリンやフルートといったメジャーな楽器では、とても授業についていけません。途方に暮れていた私を救ってくれたのが、非西洋圏のいわゆる「民族楽器」でした。インドのシタール、インドネシアのガムラン、朝鮮半島の伽耶琴、そして日本の雅楽。さすがに未経験者ばかりが多く、授業も和気あいあい。「小泉文夫記念資料室」に楽しく授業に通ったのを思い出します。

なお小泉文夫先生は、日本に民族音楽を広めた第一人者で、山下洋輔氏、坂本龍一氏など数多くの音楽家に影響を与えました。私の在学時には既にお亡くなりなっていましたが、小泉先生が残してくださった記念資料室のおかげで、私は副科実技の単位を何とか取得し、大学卒業までたどり着くことができました。

今思えば随分と遠回りをしましたが、様々な地域の楽器に幅広く触れた経験はとても得難いものでした。そして今、あらためてピアノに向き合う私の血肉になっていると思います。

教室内リモートレッスン現在継続中

一昨年のコロナ感染症での緊急事態宣言下による休業期間が明け、教室を再開してからもう2年半となります。再開以降、現在も特にご迷惑をおかけしているのが、声楽・フルート・クラリネットの皆さんです。感染防止のために、先生・生徒で二部屋に分かれて行う教室内リモートレッスンを今も継続しております。

こちらは音響機材の素人なので、使用する機材にではあれこれ迷走、模索を繰り返しました。特に二部屋をどのように映像で結ぶかは二転三転。当初はTV電話やWEBカメラを使うなど、「インターネットかつ無線」でと進めてきましたが、映像のタイムラグや通信の不安定さもあり、とても満足出来るものではありませんでした。

そこで試行錯誤を繰り返してたどり着いたのが、10年も前のハンディカメラとパソコンのディスプレイを有線で結ぶ方法です。タイムラグもなく、接続感も安定感があり、なかなか快適な状態になりました。何も今時の無線にこだわる必要はなく、昔ながらの有線でよかったのです。新しい技術がベストとは限らないことを今回改めて思いしらされました。

それにしてもこのような機材を触っていると、小学生時代の放送委員会での仕事を思い出します。機材のセッティングを済ませ、「あーあーただいまマイクのテスト中」と発した時に、マイクが無事に繋がった時は何ともいえない快感があり、楽しかったものです。

もうひと我慢の気もしますが、これからもコロナ感染症対策は常に見直して、万全を期してレッスンに臨みたいと思います。

 

 

人前の演奏での緊張 口呼吸から鼻呼吸へ(続き)

先月の続きです。

さて人前でピアノを弾く時に多くの人にとって避けられないのが「緊張」です。これはプロのピアニストも同様で、極端な例では、名ピアニスト、グレン・グールドが1964年、人前に晒されるのを嫌い、コンサート活動を引退。没する1982年まで、その活動は何度も演奏のやり直しができるレコーディングに限られます。

(1960年NBC=CBSネットでのテレビ出演。バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルと共演でバッハのチェンバロ協奏曲第1番第1楽章を演奏。)

かの名ピアニストもこの有様。凡人である私が緊張で悩むのもごく当たり前といえます。ただ極度に緊張して、演奏の途中で何をやっているのか分からなくなってしまうホワイトアウトだけは何とか避けたいもの。制御不能になっても完全に体に覚えこませておけば何とか凌げますが、そのためには徹底的に緻密な練習が必要となります。それを思うだけで人前で弾くのは億劫で気の重いものでした。

演奏中のホワイトアウトするのは、夏場にパソコンなどが熱暴走してフリーズするのと同様、緊張のあまり頭に血が上り脳が過度に熱くなるせいか?と考えてみました。脳の熱暴走をくい止め、平熱を保てればきっといいのだろう。そこで前回の「鼻呼吸」です。鼻の穴の奥は脳を包む頭蓋の底部につながっているそうです。鼻から外気を吸い脳を冷やし、籠った熱を鼻から吐き出せば、きっと熱暴走を防ぎ、ホワイトアウトせず冷静にいられるはずです。実際に試したところ、想像以上にうまくいきました。いつもなら演奏後は、耳たぶが極度に熱くなっているところ、適温に保てました。あまりカーっと熱くならず落ち着いて演奏できたように思います。

ただしこれは私の単なる個人的な体験談に過ぎません。ですが、「三人寄れば文珠の知恵」、ぜひ皆さんの体験談も積極的にお寄せください。そしてともに人前で楽しく弾けるための知恵を蓄えていきましょう。

 

マスクのおかげ 口呼吸から鼻呼吸へ

マスクがすっかり身体の一部のようになってしまいました。当初は常に息苦しく感じていましたが呼吸の方法を見直し、「口呼吸」から「鼻呼吸」へと私自身変えました。するとマスクでの息苦しさもなくなり、肩こりなどの小さな不調も解消されたように感じます。

さて鼻の中はフィルターで、ウイルスや菌を直接吸い込むのを防ぐそうです。しかも断熱効果もあり適温で身体に空気を取り込む大変な優れものだそう。https://www.taikyo.co.jp/memo/vol17/

ですから鼻呼吸はいいことずくめ。ですが私は習得するまでかなりてこずりました。特に鼻から吐くのに苦労しました。ちなみに吐く時は副交感神経が働きリラックスするそう。だから出来るだけ時間をかけて息を吐きたい。息の出口が口ならば、すぼめる等、息の量を楽に調整できますが、鼻ではそうはいきません。そこで私がまず取り組んだのが「2分間丹田呼吸法」です。やり方は3秒鼻から吸い、2秒止め、15秒かけて少しずつ口から吐きます。これを6回繰り返すとちょうど2分になります。(斉藤孝著「自然体の作り方」を参照にしました。)ポイントは吐く時に下っ腹(丹田)を触ることです。途中で吐く息が不足しても、下っ腹を軽く押すと更に吐き出せます。この丹田で息を押し出す感じが分かったので、吐き出す息を口から鼻に置き換える時も楽にできました。そして私はようやく鼻呼吸ができるようになったのです。

これはあくまでも私の個人的な経験談ですが、一応書き残しておきます。鼻呼吸もいろいろなアプローチがあると思いますが、以下の「鼻だけ腹式呼吸」も参考にされるとよいかもしれません。

なおこの鼻呼吸への見直しが、ピアノを弾く時にも大い役立ったのですが、それについてはまた来月。

 

 

 

コロナ禍の今、音楽書が熱い

コロナ禍以降、すっかり家にいる時間も長くなり、いつも以上に私の読書熱が高まっています。その熱のせいかもしれませんが、コロナ騒動になってから、興味深い音楽書が次から次へと出版されているように思えてなりません。もちろんこの時期を狙ったわけでなく、執筆・編集と長い準備期間を経て、ようやく出版されたのが偶然この時期に重なった本も多いでしょう。ですが近年稀にみる音楽書の出版ラッシュは嬉しい限りで、私の読書はまるで追いつきません。

ここで思い出されるのが、欧州復興開発銀行の初代総裁を務めたフランスの経済学者で思想家のジャック・アタリです。アタリは芸術にも大変深い造形を持ち、その著作の中で、

音楽は予言である。そのスタイルとその経済組織のなかで、音楽は社会の残余のものに先んずる。

「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」(15頁)-

と述べています。この出版ラッシュもきっと著者各々が無意識にこの現況を予知し出版時期を合わせたのではないかと勝手に想像の翼を広げています。

さて社会情勢が芳しくないと、芸術文化は衰えていくと一見思われがちですが、むしろ華開くこともあります。例えば、ショパンが活躍した19世紀前半のフランス。煌びやかなロマン主義の音楽が思い浮かびますが、当時は市民革命の激動期であり、社会情勢はロマンティックとは程遠かったといえます。現在も時代の激動期で転換点。こんなシビアな状況には音楽などの芸術による豊かな創造力が人々には必要不可欠に思えてなりません。

コロナ禍での新習慣

さてコロナ禍になって、接触感染対策の一環として、私はレッスンでの楽譜への書き込みをやめました。

その代わりに始めたのが、皆さんのレッスン曲の楽譜を予めスキャンしてiPadに取り込み、タッチペンで画面上にする書き込みです。その書き込みをレッスンの終了時にプリントアウトして皆さんにお渡ししています。(自分でプリント出来る環境がある方にはメールでデータを送っています。)

かれこれ2年以上続けてきましたが、コロナが収束した後もこの方法を継続しようと思っています。

その理由の第一は、レッスンの記録がしっかりと手元に残るからです。従来の直接書き込みだとレッスンを受けた皆さんには記録が残りますが、私の手元には残りません。ですから、次のレッスンでは、前回のレッスンで何をやったかを思い出すことから始めなければなりませんでした。ところが記録が手元に残っていれば、その作業は不要。前回からの引継ぎがスムースにできます。

理由の第二が皆さんの楽譜を汚さずに済むからです。やはり自己所有ではない楽譜に私の汚い字で書き込みをするのは、どこか抵抗がありました。ですが、今ではのびのびと遠慮なくタッチペンで自由に書き込みができ、私の精神衛生上とても良いのです。

我ながら面倒かつ回りくどい方法だと思いますが、今後もどうぞお付き合い頂ければ幸いです。

 

心身ともに健康を目指していきたいものです

ピアノレッスンの仕事はほぼ内勤といえます。弾く時に辛うじて上半身は使うものの、どうしても運動不足になりがちです。人間の筋肉の7割が下半身に集まっているそう。ですから、ここ数年、意識的に下半身を動かし運動不足の解消に努めるようになりました。ただランニングだとハード過ぎて嫌なので、もっぱらのんびりとウォーキングしています。この1年は1日1万歩を目標にスマホの万歩計アプリを頼りに何とか継続しています。

歩くコースはどうしても似通ってしまい飽きがくるので、いつも新鮮な気持ちでいるために、ヘッドホンやイヤホンで、音楽を聴きながら歩いています。「今日は筒美京平にしよう、70年代のディスコ歌謡がいいな。」などと、聴く曲も日替わりにしています。すると「今日は何を聴くか?」ということがモチベーションとなり、今やウォーキングはすっかり日常の楽しみになってしまいました。いつも歩いているコースも、聴く曲が変化すると、風景も少しだけ違って見え、新たな発見もあったりします。この聴く曲の変化のおかげで飽きずに何とか継続できている気がします。

歩くようになって、夕食を終え、歯磨きを済ます頃には、強烈な睡魔に襲われるようになりました。本当なら、もう一仕事して考え事などもしたいところですが、とりかかってもいつの間にか寝落ちしていることが多くなりました。「コロナうつ」など取り沙汰されますが、心身ともに何とか健康をキープできているのも、運動と音楽のおかげといえましょう。こんな情勢ですが、少しでも元気にやっていきたいものです。

一言でレッスンといっても

一言でテレビドラマといっても様々です。NHK朝の連続テレビ小説のように毎日15分ずつ半年間放送するもの、3か月を1クールで毎週1時間ずつ放映するもの、はたまた2時間以上の長尺でじっくり放送するものと様々です。内容にしても、紆余曲折の恋愛ドラマ、いつも通りの時間に解決する刑事ドラマ、謎が謎を呼ぶサスペンス、壮大なスケールの時代劇、きっと皆さんにも好みのタイプのドラマがあると思います。

こうしたドラマとレッスンは少し似たところがあると思っています。例えば長大な曲を丸一年かけて練習したい大河ドラマタイプの方。逆に1回のレッスンで1曲を済ませたい「水戸黄門」タイプの方もいます。また、3,4か月を1クールで1曲仕上げるペースで複数曲を同時併行していく方もいます。

一言でレッスンといっても、生徒さんそれぞれタイプも異なり、その内容も実は多岐に渡ります。一つのテクニックについて説明の仕方も人それぞれです。100%納得いくまで徹底的に伝えるケースもあります。また80%程度理解できたところで留めるケースもあります。

ただしそこでミスマッチが生じるのはよくありません。マッサージでいえば、患部を揉み足りないのは駄目ですが、強く揉み過ぎて痛くしても駄目なのと同じです。何事も丁度よい加減が肝要です。やはり気持ちよくレッスンが進んでいくのが理想です。それには教わる側、教える側の双方のコミュニケーションが欠かせません。レッスンにおける過不足等ありましたら、ご遠慮なくお声かけ下さい。

アポロ的・ディオニュソス的

以下「おたより」2020年10月号(第13号)の内容を掲載いたします。

以前、ニーチェの処女作、「悲劇の誕生」を読みましたが、私には難解で内容の理解には程遠かったものの、芸術における「アポロ的」「ディオニュソス的」という対概念を知りました。

アポロとディオニュソスは共にギリシア神話に登場し、アポロは光明と明晰の神で、ディオニュソスは酒と陶酔の神です。ニーチェは『芸術の発展というものは、アポロ的なものとディオニュソス的なものという二重性に結びついているということだ。それはちょうど生殖ということが、たえずいがみあいながらも周期的に和解する男女両性に依存しているのに似ている。』と述べています。つまり理知的な「アポロ的」な面と、本能的な「ディオニュソス的」な面は、芸術にとって車の両輪でどちらも不可欠で、絶妙なバランスで共存した時に、芸術の華が大きく開くのだと、勝手に理解したつもりでいます。

そうなると、このコロナ禍で分が悪いのは「ディオニュソス的」な面です。三密空間で気分を上げて盛り上げるというのは、どうにもはばかれます。どこか冷静になって水を差さねばならず、つい「アポロ的」な面に偏りすぎるかもしれません。すると、どこかつまらぬものに、なってしまわないか?

来年の3月を目標に、発表会イベントを再開させようと思います。現段階では具体的な詳細までは見通せませんが、いずれにしてもコロナ対策を万全に期したいと思います。ただ、その時に気分がしらけず、少しでも心温まるよう工夫して実施したいと思います。(コロナ感染が収束するのがベストなのですが…)

虎視眈々と次なる準備

ジャズでは第二次世界他薦中に、突如としてビバップという新たな形態が登場します。それまでは、大編成のビックバンドによるダンス音楽であるスウィングがジャズの中心でした。対してビバップは小編成の即興演奏で、テンポも速く、音楽に合わせて踊ろうにも踊れない。人々は音楽に注意深く耳を傾ける他ありません。ジャズが「踊る」音楽から「聴く」音楽へ変化したのです。

元々ビックバンドで演奏していたメンバーは譜面通りに演奏するスウィングに飽きていました。ステージ仕事の後、そのウサ晴らしのためにジャムセッションをしたのが、ビバップのきっかけです。録音技術の発展と共に歩んできたジャズはその最初期から録音が残っています。が、ビバップの草創期は中抜けしてしまいます。なぜなら1942年8月から2年強、音楽家ユニオンがストライキを起こし、録音を拒否したからです。

ストライキ明けの戦後、それまで潜伏して熟成されたビバップのジャズレコードが一挙に発売され、人々は驚かされたのです。そしてここからモダンジャズの時代の幕が上がるのです。

さて、ここからは私の勝手な空想です。当時と現在のコロナ禍の状況はどこか似通っているように感じています。現在、音楽家の多くは潜伏せざるを得ない状況が続いています。が、コロナ収束後、それまで地下で蓄えられたエネルギーが一気に噴出し、新たな音楽の時代がやってくるのではないか?

そして今、新時代に向けて虎視眈々と準備を進めていくことこそ大切なのだと思っています。あくまでも前を向いていこうと思います。

ビバップ草創期1941年5月の貴重な録音「スウィング・トゥ・バップ(別名:ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン)」

独立独歩で自己完結

以下「おたより」2020年8月号(第11号)の内容を掲載いたします。

緊急事態宣言が解除され、感染対策は欠かせないものの教室も再開し対面レッスンが出来るようになりました。自粛休業のウツウツとした時に比べ、レッスンが出来る喜びを噛みしめています。舞台等の実演を主にする音楽家の多くがまだまだ先の見えない厳しい状況にある中、以前と比べほぼ遜色なくレッスン出来る状況はありがたく、感謝に堪えません。

とはいえ、社会活動の中でウィルス感染の不安は、どこか頭の片隅に残っています。予防策の一つ一つにそれほど神経を使いませんが、それが積み重なるとボディーブローのように効いてきます。いつしか神経も擦り減り、気付く頃にはかなり疲労が蓄積してしまっているようです。「ウィズ・コロナ」と言葉にすれば簡単ですが、実際はそう楽でもなく、まさに「言うは易く行うは難し」を強く実感する次第です。

ですから、最近では完全に一人になった時に、感染の不安からも解放されホッとするようになってしまいました。特に一人になってピアノに向かって没頭して弾く時間に無上の喜びを感じるようになりました。これはコロナ以前にはなかった新感覚で自分でも驚いています。

ピアノはメロディ、リズム、ハーモニーを全て一人で担えます。合奏を基本とする楽器が多い中、それは特異な性質ともいえます。そのため、ピアノは独善的で、自分勝手になりやすいマイナスの面も持ちます。ですが、このコロナ禍では、それが独立独歩で、自己完結できるというプラスの面へと働いているように思います。

二歩下がって三歩進む

ピアノの上達のコツは「二歩下がって三歩進む」にあると思っています。

ピアノは他の楽器に比べてややハードルが低く、習い始めて両手で弾けるようになるまで、比較的トントンと上昇気流に乗っていきます。が一旦その上昇気流が止むと、第一の大きな壁が立ちはだかります。その時期に個人差はあるものの誰にもそれは訪れるように思います。練習しても練習しても思うように上達せず、ピアノに触れることすらつい嫌気がさしてしまいます。

ピアノは一人でメロディ・ハーモニー・リズムの全てを担います。どの要素も欠かせず、そのバランスが悪ければ、当然不調をきたします。壁にぶつかる時は大体そのバランスが崩れた時に多いようです。そんな壁にぶつかった時にお奨めなのが「二歩下がって三歩進む」練習です。

具体的な例を一つ。両手でどうにか弾けるようになったものの、ところどころでつかえる場合。このような時は一旦、両手練習を止めて片手練習に戻ります。すると意外に弾けていない部分があることに気づきます。(特に伴奏がきちんと弾けていないケースが多いように思います。)片手練習の再点検を終えたら、また両手練習に戻り再チャレンジするのです。

行き詰まったら即、前進を止め「二歩下がる」のがコツです。その時にただ下がるのではなく、問題点を冷静に見直します。着眼点を少し変えてリフレッシュできれば最高です。そしてエネルギーを充分に蓄えたところで、また大きく踏み出し「三歩進んで」いきましょう。

コロナが終息した暁には

以下「おたより」2020年6月号(第9号)の内容を掲載いたします。

今回の新型コロナウィルス感染にはホトホト参ってしまいました。今まで何気なく出来ていた対面レッスンが、まさか出来なくなる日が来るとは、つい数カ月前には想像することさえ出来ませんでした。

そして、非常事態宣言の中、対面制限を余儀なくされ、それに対応せざるをえませんでした。個人的にはLINEも始め、メールも今まで以上に使って苦手な文字コミュニケーションにも励むようになりました。そしてオンラインレッスンのテストのため、渋々ビデオ通話も始めることになりました。ところがメールやSNSに比べて、以外にも気楽に使えたので自分自身とても驚いています。やはり文字情報だけではどこか不安なのかもしれません。顔を見て声が聞けるビデオ通話の方が私にとっては安心感が強いようです。かくしてこのコロナ禍に、私のコミュニケーション法に大変革がおとずれたのでした。

さて14世紀半ば、ペストが流行したヨーロッパではカトリック教会の権威が失墜し中世が終焉、ルネサンス(文芸復興)に至ります。このコロナがペストほどの脅威かは一旦おき、なるほどパンデミックが人の意識に大きく影響することを、この度身をもって実感しました。

コロナが終息した暁には、もしかしたらルネサンスのように世界の価値観が変わり、その歴史的瞬間に立ち会えるかもしれない。そう思えば悪いことばかりでもなく、明るい希望もあるのかもと、少しばかり強がっています。一先ず対面レッスンは再開しました。やはり対面レッスンが一番いいですね。

たかが音楽されど音楽

以下「おたより」2020年5月号(第8号)の内容を掲載いたします。

さて、日本に洋楽が本格的に入ってきたのは、ペリーが来航した江戸時代の末期になりますが、実は16世紀の戦国時代にはスペイン人によるキリスト教と同時にその音楽も伝来しました。一時は国内でグレゴリオ聖歌の楽譜を印刷したり、オルガンを作ったり、洋楽を受け入れる機運は高まっていました。ところが江戸時代に入るとキリスト教は幕府に禁じられ、弾圧を受け、せっかく日本に芽生え始めた洋楽の文化も摘み取られてしまいます。(弾圧の様子は、遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙-サイレンス―」でも描かれているのでご存じの方も多いでしょう。)

ところが、その粛清の嵐の中、長崎県の生月島では、隠れキリシタンによりひっそり細々とその芽が育まれていました。それがオラショ(祈り)という聖歌です。伝来時の原形は崩れ、すっかり土着化してしまいましたが、現在に生き残っているのです。

ここに私は音楽文化の強さを感じるのです。一見何の役にも立ちそうもなく、ひ弱に見えるのですが、どんなに踏みつぶされても生き残るしぶとい強さが音楽にはあると思うのです。

ローリングストーンズは歌います、「It’s Only Rock ‘N’ Roll (But I Like It)」と。これを和訳すれば「たかがロック、されどロック」です。私も声を大にして言いたい!「It’s Only Music (But I Like It)」「たかが音楽されど音楽」。音楽は不要不急の扱いを受けがちですが、細々でも粘り強く継続していくぞ!

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